人間ってのは、とりあえず表面的には左右対称にできてるんでこういう問題が出てくるんだよな

叙述の順序って、かなり重要だよな

ホッテントリから「国分太一くん、オレも左利きなんだ : J-CASTテレビウォッチ」ってのを読んだんだが正直ピンとこなかった。

その落語の世界では、箸はかならず右手を使うように訓練する。型として決まっているということもさることながら、左手でそばを食ったら別の人物になりかねないからだ。

というところだけ、ああなるほどねーとも思ったがだから何よ、って感じ。
コメントとか見てようやく、「炎上」エントリのフォローだったのだとわかった。
国分太一くん、箸は右手で持とうよ : J-CASTテレビウォッチ
あーなるほどねー、と今度こそ思った。それでも先にフォローの方を読んでしまったおれとしては芸事って意味じゃまあそりゃそう言うんもわかるがなー、と思って読んだ。
最後の一行を除いてな。
なるほどこういうのが「炎上」の「トリガー」なのだな。
ということを後世に知らしめる、ある意味教科書に載せる価値すらあるエントリだと理解できた。
こうなると「左利き差別「炎上」に見る書き手と読み手の美しい距離感: やまもといちろうBLOG(ブログ)」というエントリもまた、その教科書に対する教科書ガイド的エントリとして大変素晴らしい。感動した。

でまあおれとしては「左手は ケツを拭く手だ 箸持つな」という最後の一行に衝撃を受けたのよ

おれは右利きで、右手で箸も鉛筆も持つ上に、紙も右手に持ってケツ拭きますが何か?と正直思ったわけだ。
後のエントリで「オレも左利き」とは明かされてるけど、この人の世代だと「箸は右手」「筆は右手」って教育・強制/矯正されるのが当然だったとは聞かされてるけど、「ケツ拭くのは左手」ってのも教育・強制/矯正されてたのか!
試しに「google:左手は ケツを拭く手だ 箸持つな -横澤 -国分」って感じでググってみた結果、上のエントリと全く関係が認められない記述としてヒットしたのはこれだけだった。

『トイレの話』  Apr. 14, 2007 ▲Top

 不浄な話だが、トイレでお尻を拭くとき、手に紙を持ち、後ろに手を回しながら、 あれ? いつもは便座からお尻を持ち上げて外から回していたのか、それとも便座に 腰掛けたまま内側から手をいれていたのでは無かったかと、一瞬考えてしまった。 いや、これ実は夢の中での事なのだが、実際には寝ていたので、頭の中で手の回し方 に迷ったのだ。現実は人のトイレを覗いて見た事が無いので、正しい方法は知らない。 男と女では基本的に違うかも知れない。何故なら男の場合、前からでは邪魔なものが ぶら下がっているので、それを持ち上げて手を入れるのは困難だ。やっぱり後ろから回 して拭くのが正しいに違いない。では、拭く手は、右手か左手かと言うと、東南アジア では箸やホークを使わないで、直接右手で食べるところが多い。イスラム教やヒンズー 教徒は左手が不浄の手で、右手は食事を食べる手と言う戒律がある。必然的にお尻を拭 くのは左手がしきたりだ。以前右手を手術して使えなかった時、左手で拭いた事があるが、 慣れていない左手は実に不器用で、なかなか上手く拭けなかった。結局は直ぐに風呂場へ 行って洗ったことは言うまでもない。いやー、イスラム教徒でなくて良かった。

いやまったく、イスラムやヒンズーでなくて良かった。真言宗でよかった。

密教成立の背景には、インド仏教後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫された社会情勢がある。そこで、ヒンドゥー教や呪術の要素を仏教に取り込むことで、インド仏教の再興を図った。

ってことなんでお大師様が「そんなんどーでもかまん」と思ってくれたんだろうきっと。発端のエントリ書いたヨコザワさんとこは同じ密教系でも天台宗なんかも知れんな。

っていうかおれは「右利き右拭き後ろから派」なんだけど

みんなどうよ?
つーかこんなんって「他人はどうしてるのか?」って普通気にせんよね。普通は見ることないし。見たくもないし*1
けど気になりだしたら気になりまくるよな。
ついでながらこの件は、おれ的には高校時代に『湘南爆走族』読んでて江口とアキラが「前から」「うしろから」とぶつかってんのみて初めて「そういうのもあるのか」と認識した問題なのである。
今回ここにさらに「左右問題」「利き手問題」という2軸が加わってしまったのだ。一体どうしてくれる。

話を元に戻すが

そういう「戒律」に触れる/触れない以前のエチケットの問題だというなら、別に右でも左でもどっちでもえーやん、と個人的には思っている。
何しろかれこれ10年以上も食事の回数の約1/3から1/2は、対面か隣に左利きがいるのだ。ヨメのことだけどな。
あとおれ自身も、ずっと右利きではあるんだけど、例えば初めて家の手伝いで鍬を持たされたときに「あんたーぎっちょやないのに持つんが逆やがね」と母だったか祖母だったかに言われたことがあった*2りその前後にバット持ったりとか色々初めてのモノを使うときに、通常右利きの人がそれを使うのと逆の方が、自分にとっては自然な気がしたりしたことがあり、実は自分は脳ミソ的には左利きなんじゃないだろうかと感じていたりする。
そんなことを感じるきっかけになったのは『鏡の国のアリス (集英社文庫 141-D)』という小説だ。
鏡の国のアリス (集英社文庫 141-D)
左利きでサックス吹きの主人公が銭湯でぼんやりしてたらいつの間にか左右が逆の「鏡の世界」に移動してしまってて、そこでその世界の「左利き」の人たちと交流して、というような、藤子F先生の短編集に入ってても違和感なさそうな小説。ちなみに作者の広瀬正自身も矯正された左利きでサックス吹き。サックスの運指は基本的に小学校で習ったリコーダーと同じでつまり左右非対称かつどちらも満遍なく使う必要がある。
右利きの人も左利きの人も、こんなの読むとちとこの件に関して沸点下がるかもね。
『マイナス・ゼロ』や『エロス』みたいに時間ネタが得意とされる広瀬正だけど、もっと突き詰めれば何というか「認識と主観/客観とそのズレ」ってのが一貫したテーマだと思ってて、その意味ではこの『鏡の国のアリス』や『ツィス』なんてのがすごく面白いすよ。

*1:っていうかこの時点で「普通ってナニよ」ってことになりそうな問題でもあるw

*2:こういう発言からかつてこの世代の左利きの方が受けた差別とか迫害とか言うのを想像できる。そういう世代の両親も祖父母も左手で箸を持つヨメに難癖つけたりしたことはないけどね。