巳正月

今日は「巳正月」(みしょうがつ)といって死んだ人のお正月なんだそうで、昨日新しくできたばかりの祖父ちゃんのお墓にみんなでお参りした。
真新しいお墓に、ひと足早くしめ飾りがつけられていた。小さめだが鏡餅も供えた。みんなで線香を供えお経をあげた後、墓の前で親父が持参したワラを燃やし、その鏡餅を焼いて(というかちょっとあぶった程度だが)みんなで引っ張り合って残さず食べた。ヘンな風習だ。
南予に嫁いでいる叔母は「うちの方ではお墓に、男の人やったら草履をかけとくんよ。女やったらボール」とかなんとか言ってた。ますますヘンな風習だ。
何でも昔は夜中に行うものだったそうだ。しかもお墓に出かけて帰ってくるまでひと言もしゃべってはいけなかったのだとか。稗田先生をお招きしたら異界への扉が開きそうだ。
ちょこっとググってみたけどこの由来ってのがもう笑っちゃうくらいバラバラ。

 愛媛独特の慣習である「みんま」は、その年亡くなった人の正月のこと。巳正月とも呼ばれ、四国地方に古くから伝えられている慣習のひとつ。12月の第1巳の日または、第2巳の日に近親者が集まり、お正月のようなことを行う。また、東予地方では、辰の日に行われるため「辰巳」とも呼ばれている。
 みんまの行い方は地方によって違う。いずれにしても、ふだん行わない奇抜な内容が多いく、普通は行わないようなことを行うことによって、それまでの状況を断ち、けがれを打ち捨てて清浄な気持ちで新年を迎えたいという慣習。
 なお、12月の第1の巳の日までに亡くなっても、四十九日の忌明け法要がすんでいない新仏様のみんまは、翌年に行われることが多いよう。この行事の由来に関しては、諸説があり、戦国時代、高縄半島を中心に勇猛を誇った武将たちの出陣の祈りで、生きて祝えないかもしれない正月を一足早く12月の巳の日に祝ったという説や、秀吉の朝鮮出兵の帰途、高浜町の海岸で、戦死した兵士を弔うために餅をつき、それを朝鮮に向けて供え、後で皆が竹に餅をさして食べた慣習が残ったという説が有力ではないかと考えられている。

で、なんでこんな風習があるの?と、あなたと同じように弟子 密成も思ったので、いろーんなお坊さんに聞いてみましたよ。
一番多かったのは瀬戸内海の海賊集団(正確には村上一族の“海上勢力”?)「村上水軍」のボスが亡くなった時に関係がある。という説です。
だから亡骸が通った場所によって(深夜だったらしい)「辰」の地方と「巳」にやる地方があるんだって。(ちなみに、その境界線は 「大三島」という瀬戸内海の島です)
ほんでボスが死んだのが、対抗勢力にバレないようにお墓に行っても一言も、しゃべってはいけません。(これは、今もそう)
ばあちゃんの話では徳島あたりでは、「み正月」に来て欲しい人に「おじゅう」に入れたモチを4個持っていって(み正月の“み”の字も口に出さず)招待された人は「豆腐」を持って行くらしいです。
この豆腐をお供えする風習は僕の地方にも残っていて
豆腐の上で新仏さんが踊りながら「ニコッ」と笑うらしいです。
絵を想像しただけで「ニコッ」じゃ済まないぐらい可笑しいですが。
しかし「といっても、 いろんな話がありすぎて、よーわからん!」と多くの人が、言っておられました。

 まず、この巳正月を迎えるにあたって、平たいお餅を搗いて、日にちが変わる(大島でしたら辰から巳に掛けて)夜中に墓に行き、無言のまま餅を焙り、錆びた鎌を逆手に持って餅を切り、参拝した夫々が餅を頂き夜が明けるまでに自宅に帰る。決して他人に会ってはならないし、会っても勿論喋ってはいけない。
 まあ何たる奇習。世界でも先進国と言われているこの日本で未だにこんな奇習が存在するとは???
 その平家の落人説ですけど、ご存知の様に平家は源氏に追われて瀬戸内を西に下り最後は下関の関門海峡で全滅する訳ですけど、おそらく途中で多くの人たちが落人となって行った人も当然いたはずです。
 その落人達は正月の祝いも賑やかに行なう事を許されず、まして源氏との戦で亡くなって逝った人たちの弔いもままならぬ状態でした。そこで落人達は人知れず夜中に墓に参り、墓の前で源頼朝に見立てた餅を火で焙って、わざわざ切れにくい錆びた鎌で首を刎ねて、仇を討った事を亡くなった人に見せてあげる。それがこの行事の始まりと言う説があります。

最後のなんか「あんとくさまお許しを〜」とか言いたくなっちゃうな。